東ドイツ国家保安省・シュタージ

東ドイツを知る上で非常に重要なシュタージとその関連施設のお話しをします。

 

 

 

 

冷戦時代、ソ連や東欧各国では、対外諜報のみならず、自国民を徹底的に監視していました。ソ連や東ドイツは有名ですが、ポーランドでもチェコでも「昼間歩いていると、身分証明書の掲示を求められたり尋問された」ということです。そして家の中でも会話はひっそり、公共の場では沈黙、そして他人をむやみに見ることもしないのが当たり前の社会だったと、東欧人からは聞きます。但し、私が知っているのはロンドンの東欧人、基本的には自国よりも西欧の経済発展している国に住んでしあわせな人達なので、当時の話はちょっと大袈裟に話してくれている可能性はありますが。

 

 

 

シュタージ (Stasi)

 

 

 

シュタージとはMinisterium für Staatssicherheit (国家保安省) の短縮系です。ソ連のKGB同様、対外諜報の他に、自国民の監視もしていました。正式に雇われていた本業のシュタージは約9万人ですが、11万人~19万人(統計によって違う)の密告者が常時いたようです。

シュタージはソ連のKGBからは独立していましたが、西側陣営打倒のため、お互い協力し合っていたようです。ドレスデン時代のプーチン大統領は、シュタージのリクルートメント活動のサポートをしていたという話もあります。時々、ドレスデン時代の友人として、元シュタージの人もドキュメンタリーや本などに登場します。

第二次大戦後、ソ連統治下で人民警察が組織され、1949年の東ドイツ建国後、国家保安省が創設されました。この時のトップは他の人ですが、1953年に国家保安相に就任したエーリッヒ・ミールケが、その後30数年に渡り、国家評議委員長のエーリッヒ・ホーネッカーとともに、東ドイツを恐ろしい監視国家にします。2人のエーリッヒですね。ミールケは、もともと両親が共産党員で、彼自身も10代から共産党の青年団に参加、20代前半でソ連に亡命し、そこでスパイの教育を受けたようです。このスパイのエリートは、戦後荒廃したドイツに戻り、ソ連で学んだことをいかして、国家公安省のトップとなりました。スパイのエリートといえるでしょう。

シュタージのスパイは、西ドイツや他国にも潜入し、あらゆる情報を集めます。これは西側も同様だと思うし、現在でも当たり前のことだと思うので、あまり問題はないでしょう。しかし、自国民の監視、盗聴・盗撮だけならまだしも、親戚や友人を密告者にして徹底的に監視をするのは許せません。

 

ホーエンシェンハウゼン刑務所 (Berlin-Hohenschönhausen)

 

シュタージの刑務所だったところが、現在博物館として公開されています。ここの見学は決められた時間のガイドツアーのみとなっています。もともとガイドさん達は、元囚人ということですが、最近はどうでしょう? 私が行った10年前は、ドイツ語は多分毎日あったと思いますが、英語のツアーは週2日でした。現在は、ドイツ語も英語も毎日2~3回、ロシア語は週1回あるようです。この状況で元囚人のガイドが足りるのか疑問です。壁崩壊から30年、当時囚人だった人達は、ほとんど年金生活に入っているのではないでしょうか? もしかしたら、年をとって他の仕事を辞めてからガイドのバイトをする人もいるのでしょうか? 

ここに行く前「囚人だった人達は、自分が辛い思いをした刑務所のガイドをしたいのか」と疑問に思っていました。しかし私の時のガイドさんは、淡々と説明して、辛かったとか、そういうことは感じさせなかったので、仕事は仕事として割り切っていたのか、それとも、自分の体験や歴史を知って欲しいという気持ちでガイドをしていたのでしょうか? イメージとしては前者でした。思いつめるような人はガイドをしないだけかもしれません。

さて、公式サイトによると、個人の場合は相変わらず予約なし、当日チケット購入のようです。私が行った時は、確かツアーの始まる15分ぐらい前でしたが、既にたくさん人がいました。そして、ドイツ語のツアーは何組もあり、広い敷地・建物どこにいっても見学者がたくさんいました。そういうことで、本来ならサブマリンと呼ばれる50年代にできた建物から周るはずが、混み過ぎていたので、70年代にできた新しい建物から周ることになりました。私としては、その順番で周ってくれてよかったです。50年代の建物を見学した後では、もうどこにも行きたくなかったと思います。

ガイドさんは自分が何の罪で収容されたとはいいませんでしたが、とにかく理由はなんでもよかったということでした。気に入らなければ捕まえて刑務所に収容、そんな世の中だったと。逮捕して刑務所に連れて来る時は、刑務所の場所が特定されないように目隠しをして、更に、グルグル遠回りをして連れてきたそうです。刑務所の場所は、関係者しか知らなかったと言っていましたが、かなり広くて、管制塔もありました。そして、この近くには、70年代に建てられたコンクリートの高層アパートがあるので、そこの窓から眺めたらわかるのではないかと思ったのですが、そのアパートもシュタージの従業員用だった可能性もありますね。

刑務所内には、囚人の写真と罪名、判決、刑期などが詳しく書かれているものがあるのですが、ガイドさんの説明を聞きながらみんなで歩いていくので、そういうのを読む時間などは、全くありませんでした。せっかくなのに残念です。また刑務所内には信号があり、囚人同士が顔を合わせないようにするとか、かなり厳戒態勢だったようです。

上の白黒写真は70年代の新しい建物で、廊下の真ん中にある鉄のドアの上にあるのが信号になっています。こちらの建物の部屋は個室になっていて、マットが敷いてあるベッドが1つと、洗面台・トイレがありました。開かないと思いますが、窓があるので部屋は明るかったです。しかし、50年代の建物の部屋は、こことは全然違いました。木のベッド、トイレ用のバケツ、窓ナシ、汚い拷問部屋ありで酷かったです。外には有刺鉄線、護送用の電車などがありました。

刑務所に行くには、アレキサンダー広場からトラムに乗ります。

  • M6番 Genslerstr 下車
  • M5番 Freienwalder Str.下車

私はM6番で行きましたが、停留所の周りは、共産国らしいコンクリートのビルと木ぐらいでした。M5番の停留所の方が、コンクリートだけではなく、かわいい家などがあると思います。M6の停留所からは歩いて10分かからないぐらいですが、コンクリートと木の間を歩いていくので、実際より長く感じます。

 

シュタージ博物館

 

東ドイツ時代シュタージのヘッドオフィスだったところが、現在博物館として公開されています。こちらには、当時の盗聴器の数々、ミールケの部屋、壁崩壊後に市民が押し寄せている写真などが一般に展示されています。私が行った時は、最後にカフェがあり、映画が上映されていました。お土産などは、入り口のチケット売り場の後ろにちょっとだけ置いてあり、ビデオや本はドイツ語のみでした。展示物はあまり変わっていないと思いますが、展示の仕方とか内装・ショップ・カフェなどは、相当変わっているのではないかと思われます。また、現在は建物の外にも展示物があるようです。

そして、この建物にはシュタージが集めた個人情報のファイルもあり、壁崩壊後、本人又は親戚に限り、情報を閲覧することができたようです。何か思うことがあって、自分のファイルを見た人達は、実は奥さんとか両親が自分を密告していたというのを発見します。映画『善き人のためのソナタ (Das Leben der Anderen)』の最後のようなものだったでしょう。人によっては、シュタージによって脅されたから仕方がないと思えたかもしれませんが、人間不信になった人も多かったようです。

アレキサンダー広場から地下鉄U5番に乗り Magdalenenstr.で降ります。駅から外に出て見えるのは、ほとんど巨大なコンクリートのビルだけです。Frankfruter Allee駅まで延々と続くコンクリートビルは、見応えはあります。博物館は駅から歩いて5分ぐらいですが、駅のある大通りではなく、ちょっとぐるっと回って入ったところにあります。

木の中に仕掛けた盗聴器

 

 

ドイツに住んでいるコンサート仲間達は、壁崩壊時20代だった人が多いので、ふとした時に「僕たちは東ドイツだったから、好きなバンドのコンサートを見に行くこともできなかった・・・」とか「軍隊で知り合った」とか東ドイツ時代の話がでてきます。しかしさすがにシュタージの話とか、密告者だったなどという話は聞いたことがありません。コンサートで並んでいる間にする話ではないですけどね。でも私がシュタージ博物館で買ったDVDが『Fur Mick Jagger In Den Knast (ミック・ジャガーのために刑務所)』 ストーンズのファンだっただけで、刑務所に入れられた人の話です。同じような境遇の人はたくさんいるかもしれません。

 

 

ホーエンシェンハウゼン刑務所https://www.stiftung-hsh.de/
シュタージ博物館https://www.stasimuseum.de/
シュタージ・アーカイブhttps://www.bstu.de/

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